「友よ」岡林信康 は意外なところでも。なぜ封印した?


こんにちは
健康オタクの あんこう です。

今回は
岡林信康
「友よ」
です。

昭和43年(1968)

反体制の象徴とされた「友よ」
ですが
意外なところでも歌われていました。

「友よ」で岡林信康の苦悩がピークに

反戦・反体制の学生運動が
沸き起こった時代に

ちょうどタイミングを合わせるように
岡林信康の「友よ」が発売された。

だが
当の岡林信康が意図したことと
違って解釈されることになる。

もともとは
教会の信者である岡林信康が
「讃美歌を根源として創った詞」
と言っている。

創ったときは二番の歌詞までしかなかった。

その詞に
元フォークキャンパーズのリーダー
鈴木氏が『友よ闘いの炎を燃やせ』
の詞を含む三番の歌詞を付けて発表した。

発売したときは
付け足した三番の歌詞が最初にきているようだ。

この
『友よ闘いの炎を燃やせ』と
『夜明けは近い』のフレーズが
労音や活動家の意図に合って

当時歌われていた
「インターナショナル」に変わって
歌われるようになった。

また
当時流行っていた歌声喫茶でも
盛んに歌われるようになった。

歌の力は大きく作用し
岡林信康は
反体制の象徴として崇められ

『フォークの神様』
と呼ばれるようになる。

自分と違う自分が創造されてしまったのだろう。

こののち、いわゆる失踪事件が起きる。

「友よ」を封印した

驚くことに
1992年、フジテレビのドラマ
『愛という名のもとに』第10回
の劇中歌で効果的に使われている。

最終回では
「私たちの望むものは」
が同様に使われている。

このとき、評判が良くて
レコード化する動きがあったが

岡林信康自身が
この時代に歌うことの意味がない
という理由で断り
自分自身が歌うことを封印してしまった。

「友よ」が意外なところで歌われていた

この岡林信康の「友よ」ですが
反体制の象徴となった歌だった

と思っていたら
岡林信康は

当時の
左翼運動の
テーマソングになったかと思ったら
自衛隊の駐屯地でも歌われていたらしい

(引用元:wikipedia)

と語っている。

実際、私が30代の頃
岡林信康のコンサートを
見に行った所が自衛隊の駐屯地のある町だった。

自衛隊員の人たちが
「友よ」をよく歌っていて
それで呼んだんだろうか。

それとも、興業主が
自衛隊の人たちでも
観に来てくれると信じて呼んだんだろうか。

あらためて歌詞を読んでみよう。


友よ 夜明け前の闇の中で
友よ 戦いの炎をもやせ
夜明けは近い 夜明けは近い
友よ この闇の向こうには
友よ 輝くあしたがある

作詞・作曲 岡林信康

自衛隊でも左翼系でも
どちらにもとれるから不思議だ。

「讃美歌を根源として創った」
というのがうなずける。

【自分を貫いた岡林信康が観れます】
【36年ぶりの日比谷野音コンサート】
「私たちの望むものは」の後、最近の岡林信康が復活した

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